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徳川家人物録

徳川家
徳川家康より続く徳川将軍家は、15代270年余りの泰平の世を形成した。徳川宗家の血が途絶えても、御三家御三卿制度で血筋を絶やすことはなく、世界稀に見る長期政権を作る。しかし、盛者必衰の理のとおり、徳川将軍家の威光も幕末には衰退していく。

※ここでは、徳川家の血筋を紹介します。



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あ行


池田 茂政
いけだ もちまさ
(1839-1899)
水戸徳川家
岡山池田家
兄を打てぬと隠居した水戸烈公の子
天保10年、水戸藩主徳川斉昭の九男として生まれる。嘉永元年、忍藩主松平忠国の養子縁組。安政6年、安政の大獄によって実父斉昭が処罰を受けると、忠国より廃嫡されて水戸徳川家に復籍する。その後、岡山藩で藩論が統一しない状況を憂いた岡山藩士江見陽之進の進言によって、文久3年に岡山藩主池田慶政の婿養子となり家督を継いだ。慶応4年、兄である15代将軍徳川慶喜の追討の勅命が岡山藩にも出されるが、兄を討つための討伐軍に加われず隠居した。
変名:徳川九郎麿、松平昭休、松平忠矩、池田修政
主な役職:第9代岡山藩主
剣術:-
墓所:備前市吉永町和意谷池田家墓所


池田 慶徳
いけだ よしのり
(1837-1877)
水戸徳川家
鳥取池田家
廃藩置県を自ら明治政府に提案した水戸烈公の子
天保8年、水戸藩主徳川斉昭の5男として生まれる。実父斉昭に「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申養子向」と評されている。嘉永3年、鳥取藩主池田慶栄が嗣子無く急死したことから、幕命によりその跡を継ぐ。鳥取藩の藩政改革を推進し、学問を奨励、民意を聞くことに努める。水戸学の影響から、尊皇攘夷思想を持ち、朝廷から摂海守備総督を命じられて、英国船に発砲して攘夷実行の姿勢を示した。慶応4年には、新政府の議定に就任する。戊辰戦争では東北に藩兵を派遣している。明治2年、版籍奉還により鳥取藩知事に就任。明治7年、廃藩置県により免職となった。明治10年、肺炎のため死去。
変名:徳川五郎麿、池田昭徳
主な役職:第12代鳥取藩主、鳥取藩知事
剣術:-
墓所:鳥取市立川町大雲院



か行


喜連川 縄氏
きつれがわ つなうじ
(1844-1874)
水戸徳川家
喜連川
足利家
廃藩置県を自ら明治政府に提案した水戸烈公の子
天保15年、水戸藩主徳川斉昭の十一男として生まれる。文久2年、喜連川藩主喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継ぐ。大政奉還後、新政府は諸藩に対して藩主の上洛・恭順を求めるが、実兄徳川慶喜との直接的な対立を避けるため、重臣を上洛させ兵糧を献上した。同年、姓を喜連川家本来の姓である足利に改めている。明治7年、死去。
変名:徳川余一麿、徳川昭縄、足利縄氏
主な役職:第11代喜連川藩主
剣術:-
墓所:さくら市喜連川龍光寺






た行


土屋 挙直
つちや しげなお
(1852-1892)
水戸徳川家
土屋家
没落する士族のために尽力した水戸烈公の子
嘉永5年、水戸藩主徳川斉昭の十七男として生まれる。斉昭の従弟である第10代土浦藩主土屋寅直の養子となる。慶応4年に義父寅直の隠居により家督を継ぐ。明治2年、版籍奉還により土浦藩知事に任じられ、明治4年の廃藩置県で知藩事を免官された。東京へ移り、内務省御用掛と勧農局事務取扱役を兼任。職を辞任した後は、士族のために農地開発、開拓を積極的に推し進めたとされる。明治25年、死去。
変名:徳川余七麻呂、松平昭邦
主な役職:第11代土浦藩主土浦知藩事、内務省御用掛、勧農局事務取扱役
剣術:-
墓所:土浦市大岩田町法泉寺


徳川 昭武
とくがわ あきたけ
(1853-1910)
水戸徳川家
清水徳川家
幕府使節団を率いて渡欧した若き徳川当主
嘉永6年、水戸藩主徳川斉昭の十八男として生まれる。文久3年、病の兄昭訓の看護を名目に上京。禁門の変や天狗党の乱では、幼年ながら一軍の将として出陣している。慶応2年、清水徳川家を相続。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられ、使節団を率いて渡仏する。万博終了後も引き続き、幕府代表として欧州各国を歴訪。以後、パリで留学生活を送る。慶応4年、幕府瓦解により帰国。翌年には水戸徳川家を相続し、最後の水戸藩主に就任する。明治2年、版籍奉還により水戸藩知事に就任。明治4年の廃藩置県に伴い藩知事を免ぜらた。明治7年、陸軍少尉に任官。初期の陸軍戸山学校にて、軍事教養を教授した。明治9年には、フィラデルフィア万国博覧会の御用掛となり訪米。その後、フランスで再び留学し、明治14年に帰国した。明治43年、死去。
変名:徳川余八麿、徳川昭徳、松平昭武
主な役職:清水家6代当主、第11代水戸藩主、水戸藩知事、陸軍戸山学校教官万国博覧会御用掛
剣術:-
墓所:常陸太田市瑞竜町瑞龍山墓地


徳川 家定
とくがわ いえさだ
(1824-1958)
徳川宗家
国難に就任した病弱の将軍
文政7年、第12代将軍徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。父家慶の男子はほとんど早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。嘉永6年、家慶の病死に伴って第13代将軍に就任。嘉永7年、幕府は日米和親条約に調印する。もともと病弱であったが、将軍就任以後はさらに悪化したとされている。このため、幕政は老中阿部正弘や堀田正睦によって主導された。安政4年、米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。正室の鷹司政煕の娘任子や一条忠良の娘秀子はいずれも早世し、薩摩藩主島津斉彬の養女篤子を迎えるが、世継は誕生しなかった。このため、将軍在職中から後継者争が起こり、将軍継嗣問題で南紀派と一橋派が争うことになる。安政5年、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にするという意向を発表した。安政5年、死去。
変名:徳川政之助、徳川家祥
主な役職:第13代征夷大将軍
剣術:-
墓所:東京都台東区寛永寺


徳川 家達
とくがわ いえさと
(1863-1940)
田安徳川家
徳川宗家
幻の徳川16代将軍
文久3年、江戸城田安屋敷において、田安徳川家の徳川慶頼の三男として生まれる。14代将軍徳川家茂死去の際、家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い家達の相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、一橋家の徳川慶喜が15代将軍に就任した。大政奉還を経て、慶応4年に新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、駿府藩主として70万石を与えられる。同年、皇居において明治天皇に拝謁。従四位下左近衛権少将に叙任、同日さらに従三位左近衛権中将に昇叙転任する。明治2年、静岡藩知事に就任。明治4年、廃藩置県によって免職となり、東京へ移住。大正2年、恩賜財団済生会会長に就任。大正10年には大日本蹴球協会名誉会長となる。昭和4年、第6代日本赤十字社社長に就任。昭和11年、オリンピック東京大会組織委員会委員長に就任。昭和15年、死去。

変名:田安亀之助、コ川亀之助、徳川静岳
主な役職:初代駿府藩藩主、静岡藩知事、恩賜財団済生会会長、大日本蹴球協会名誉会長、
日本赤十字社社長、オリンピック東京大会組織委員会委員長
剣術:-
墓所:東京都台東区上野寛永寺



徳川 家茂
とくがわ いえもち
(1846-1866)
紀州徳川家
徳川宗家
若くして逝った14代将軍
弘化3年、11代紀州藩主徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸で生まれる。嘉永2年、12代紀州藩主徳川斉彊が死去したため4歳で家督を継ぐ。安政5年、徳川幕府第14代征夷大将軍となる。文久2年、公武合体策の一環として和宮親子内親王と結婚。徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮といわれた。文久3年には将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、孝明天皇に攘夷を誓った。慶応元年、兵庫開港を決定した老中阿部正外らが朝廷によって処罰されると、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申。孝明天皇は大いに慌てて辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉をしないと約束した。慶応2年、家茂は第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れ20歳の若さで死去。

変名:徳川菊千代、徳川慶福、徳川家茂
主な役職:第13代紀州藩主、第14代征夷大将軍
剣術:-
墓所:東京都港区広度院増上寺


徳川 家慶
とくがわ いえよし
(1837-1853)
徳川宗家
天保の改革を推進した12代将軍
寛政5年、第11代将軍徳川家斉の次男として生まれる。天保8年に45歳で将軍職を譲られるが、家斉が大御所として発言権を保持したままであった。天保12年、 家斉の死後にようやく実権を持つと、老中首座水野忠邦を重用し、天保の改革を推進する。しかし、幕府財政再建の諸改革は、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また、それに伴った言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を蛮社の獄で弾圧する。天保14年、江戸や大坂周辺の大名、旗本領の幕府直轄領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、忠邦は失脚。天保の改革は挫折した。また、お由羅騒動に介入して薩摩藩主島津斉興を隠居させたり、水戸藩主徳川斉昭に隠居謹慎を命じたりもしている。嘉永6年、ペリーが来航し、幕府がその対策に追われる最中に急死した。子女は14男13女設けたが、20歳を過ぎて生きたのは四男の家定だけであった。
変名:徳川敏次郎
主な役職:第12代征夷大将軍
剣術:-
墓所:東京都港区広度院増上寺

徳川 斉昭
とくがわ なりあき
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徳川 茂承
とくがわ もちつぐ
(1844-1906)
紀州徳川家
病を押して新政府軍に釈明した最後の紀州藩主
天保15年、西条藩主松平頼学の六男として生まれる。安政5年、紀州藩第13代藩主徳川慶福が第14代将軍に就任すると、幕命により紀州藩第14代藩主に就任する。第二次長州征伐では、先鋒総督に任命され、附家老安藤直裕を先鋒総督名代とした。慶応4年、鳥羽伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を受けかけたが、当時病気療養中であった茂承は、病を押して釈明し新政府に叛く意志はないということを証明。藩兵1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した。明治2年、版籍奉還によって和歌山藩知事となり、明治4年の廃藩置県で東京府に移住する。明治11年、10万円を拠出し旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立。買収した田畑からの収入で徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。明治23年、貴族院議員。明治39年、死去。
変名:松平孝吉、松平賢吉、松平頼久、徳川茂承
主な役職:第14代紀州藩主、第二次長州征討先鋒総督和歌山藩知事貴族院議員
剣術:-
墓所:東京都大田区池上本門寺、海南市下津町長保寺


徳川 茂徳
とくがわ もちなが
(1831-1884)
尾張徳川家
一橋徳川家
時代の情勢に押し流された高須四兄弟の一人
天保2年、高須藩第10代藩主松平義建の五男として生まれる。兄達の夭折や養子縁組により嫡子となった。嘉永3年、高須藩第11代藩主に就任。安政5年、安政の大獄により、尾張藩主であった異母兄徳川慶勝の隠居謹慎に伴って尾張藩主に就任。文久3年に隠居する。慶応2年、一橋家から徳川宗家を相続した徳川慶喜に代わって一橋家当主を継承。幕府瓦解後は徳川家の総代的な役割を担い、新政府との交渉にあたり、東征大総督有栖川宮熾仁親王に前将軍慶喜の寛大な処分を願う。一橋家は大名に列して立藩するが、版籍奉還により一橋藩は解体された。明治17年、死去。
変名:松平鎮三郎、松平建重、松平義比、徳川茂徳、徳川茂栄、一橋茂栄
主な役職:第11代征夷大将軍、第15代尾張藩主、一橋家10代当主、初代一橋藩藩主
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園


徳川 慶篤
とくがわ よしあつ
(1832-1868)
水戸徳川家
ゆらぐ藩論に苦慮した「よかろう様」
天保3年、水戸藩主徳川斉昭の嫡男として生まれる。父斉昭の隠居に伴い、弘化元年に家督を相続。幼年であったため、分家の三連枝(高松藩・守山藩・常陸府中藩)による後見が命じられ、政務は保守派の重臣が補佐した。文久2年の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派を懐柔。翌年の、生麦事件賠償問題などにも尽力している。元治元年の天狗党の乱では、当初は天狗党を支持したものの、幕府が天狗党の討伐を決定すると、耕雲斎らを罷免して討伐軍を派遣するなど、藩政を混乱させた。以後、保守門閥派、諸生党が水戸藩の実権を握った。慶応4年、在京の水戸藩士本圀寺勢に託された「除奸反正」の勅書を受諾して藩政を刷新するよう、徳川慶喜から助言され、勅命を受諾。尊攘派が実権を握って、朝敵とされることを免れた。しかし、その後の諸生党弾圧は陰惨を極め、その災禍は諸生党の縁類だけでなく、中立派や僧侶や豪農にも及んだ。その渦中、体調を崩して急逝した。
変名:徳川鶴千代麿
主な役職:第10代水戸藩主
剣術:-
墓所:常陸太田市瑞竜町瑞龍山墓地



徳川 慶勝
とくがわ よしかつ
(1824-1883)
尾張徳川家
御三家ながら新政府にいち早く協力した尾張藩主
文政7年、高須藩主松平義建の次男として生まれる。嘉永2年、宗藩である尾張藩主徳川慶臧が死去すると、第14代尾張藩主に就任する。倹約政策を主とした藩政改革を行い、幕政では井伊直弼の日米修好通商条約調印に抗議して不時登城するなど攘夷を主張する。しかし、安政の大獄が始まると隠居謹慎を命じられ、弟の茂徳が15代藩主となった。桜田門外の変後に許されて、謹慎が解かれる。文久3年に茂徳が隠居し、実子義宜が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。元治元年に雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられるが辞退。第一次長州征伐には、征討軍総督に任じられる。第二次長州征伐が決定されると、これに反対。一橋茂徳の征長総督就任を拒否させた。慶応3年、新政府の議定に任ぜられ、小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定し、通告役となる。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、新政府を代表して大坂城に入城した。しかし、尾張藩内で恭順派と佐幕派の対立が激化すると、佐幕派を弾圧する青松葉事件をおこした。明治16年、死去。
変名:松平秀之助、松平義恕、徳川慶恕、徳川慶勝、月堂
主な役職:第14代尾張藩主
剣術:-
墓所:東京都新宿区西光庵


徳川 慶頼
とくがわ よしなり
(1828-1876)
田安徳川家
和宮と共に江戸城無血開城に尽力した田安家当主
文政11年、田安徳川家当主徳川斉匡の九男として生まれる。天保10年、義兄徳川斉荘が、尾張徳川家の家督を相続したため家督を相続。安政5年、第14代将軍徳川家茂の後見人として、将軍後見職に就任する。文久2年、家茂の後見職を解任。後任には一橋慶喜が選ばれた。文久3年に隠居。慶応4年、寛永寺に謹慎した慶喜に代わって徳川家をまとめ、静寛院宮と協力して朝廷との折衝に当たり、江戸城無血開城に尽力する。新政府は三男の家達に徳川宗家の家督を相続させる。それに伴い再度田安家当主となった。明治元年、田安藩として立藩して大名となる。しかし、明治2年に版籍奉還して田安藩は廃藩となるが、知藩事への就任は認められなかった。明治9年、死去。隻眼は自らの手で潰したとされるが、その理由には諸説がある。
変名:徳川耕之助、田安慶頼
主な役職:田安家5代8代当主、将軍後見職、初代田安藩主
剣術:-
墓所:東京都台東区寛永寺



徳川 慶喜
とくがわ よしのぶ
(1837-1913)
水戸徳川家
一橋徳川家
徳川宗家
徳川幕府15代の幕を引いた最後の将軍
徳川幕府第15代征夷大将軍。天保8年水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれる。弘化4年一橋家を相続。14代将軍の座を紀州藩主の徳川家茂と争って敗れ、安政の大獄により隠居謹慎処分となる。文久2年、将軍後見職に、松平春嶽とともに文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なう。元治元年、禁裏御守衛総督に就任。同年7月に起こった蛤御門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した。慶応2年、家茂の後継として第15代征夷大将軍となる。慶応3年には大政奉還で徳川幕府の幕を下ろす。
維新後は隠居していたが、明治35年に貴族院議員となる。大正2年11月22日、感冒で死去。

変名:徳川七郎麻呂、松平昭致、一橋慶喜、徳川子邦、徳川興山
主な役職:一橋家9代当主、第15代征夷大将軍、参議、貴族院議員
剣術:水府流剣術
墓所:東京都台東区谷中霊園


ま行


松平 武聰
まつだいら たけあきら
(1842-1882)
水戸徳川家
越智松平家
兄に従い藩論を佐幕とした烈公の子
天保13年、水戸藩主徳川斉昭の十男として生まれる。弘化4年、浜田藩主松平武成の末期養子となり、浜田藩主となる。倹約令、不正の取締、治水工事や殖産興業化を推し進めて藩財政を再建。浜田藩は、第2次長州征伐に参加したが、病に臥して指揮が執れず、長州藩士大村益次郎率いる軍勢の前に藩軍は壊滅する。長州藩兵が浜田領に侵攻すると、浜田城を焼き払って松江に逃亡。浜田藩領の大部分は、長州藩の占領下に置かれたため、飛地である鶴田に逃れて鶴田藩主となる。鳥羽伏見の戦い後、藩主が徳川慶喜の弟である事を理由に自主的に謹慎をしていたが、藩兵30名が竹中重固指揮下の旧幕府軍に参加していた事が判明。朝敵とみなされる可能性が浮上した。新政府は鶴田藩に対して恭順の証明として藩主自らの上京して謝罪をする事が命じるが、病のために上京が困難であり、世子も4歳の幼児で同じく上京不可能であった。このため家老3名の切腹をもって上京の延期を求める嘆願を提出。新政府側も理解は示したものの、家老1名の切腹を命じられ恭順を許された。明治2年、版籍奉還により鶴田藩知事に就任。明治4年、廃藩置県により知藩事を免職となる。明治15年、死去。
変名:徳川十郎麿、徳川昭音
主な役職:第4代浜田藩主、初代鶴田藩主、鶴田知藩事
剣術:-
墓所:東京都荒川区善性寺


松平 忠和
まつだいら ただかず
(1851-1917)
水戸徳川家
深溝松平家
臣下の争いに苦慮した島原藩主
嘉永4年、水戸藩主徳川斉昭の十六男として生まれる。文久2年、第12代島原藩主松平忠愛が嗣子無くして急死したため、末期養子となって家督を継ぐ。元治元年の第一次長州征伐、慶応2年の第二次長州征伐に参加する。藩論が佐幕であったため、藩内尊王攘夷派下級藩士が多数脱藩して、天誅組の変や天狗党の乱に参加している。慶応元年には藩内過激派が藩の家老を惨殺するなど藩内は混乱した。明治2年の版籍奉還で、島原知藩事に就任。明治4年の廃藩置県で、知藩事を免官されて東京へ移った。東京では、放蕩などにより家計が窮乏。旧家臣団の派閥対立も加わり、家政は混乱した。この事態に、甥の徳川篤敬らが家政の相談役になることによって解決される。明治7年、東照宮宮司に就任。明治14年には、明治法律学校開校の後援者となる。大正6年、死去。
変名:徳川余六麿
主な役職:第8代島原藩主、初島原知藩事東照宮宮司
剣術:-
墓所:愛知県額田郡幸田町本光寺


松平 直侯
まつだいら なおよし
(1839-1862)
水戸徳川家
川越松平家
ゆらぐ藩論に苦慮した「よかろう様」
天保10年、水戸藩主徳川斉昭の八男として生まれる。川越藩第5代藩主松平典則と養子縁組。嘉永7年、養父典則の隠居により家督を継ぐ。川越藩は5代典則の頃より、ペリーの来航によって、品川台場の築造、武備の増強、藩兵の派遣を担当して財政を圧迫。こうした出費が藩政を悩ませた。文久元年、家督を養子の直克に譲って隠居。その4日後に死去した。
変名:徳川八郎麿、松平昭融
主な役職:第6代川越藩主
剣術:-
墓所:川越市小仙波町喜多院


松平 喜徳
まつだいら のぶのり
(1855-1891)
水戸徳川家
会津松平家
守山松平家
会津戦争時の会津藩主
安政2年、水戸藩主徳川斉昭の十九男として生まれる。慶応3年に、会津藩第9代藩主松平容保の養子となる。慶応4年、容保の隠居により家督を相続した。鳥羽伏見の戦い後、会津藩は朝敵となり、新政府は会津藩を攻撃。約1ヶ月の篭城戦を経て、新政府軍に降伏。家名は断絶、領地を没収されて、容保とともに永禁固を命じられる。明治6年、元松川藩知事であった斉昭の二十二男松平頼之が死去。容保との養子縁組を解消し、守山松平家の跡を継いだ。明治9年にフランス留学。明治11年に帰国した。明治24年、死去。
変名:徳川余九麿、松平昭則
主な役職:第10代会津藩主、守山松平家9代当主、
剣術:-
墓所:東京都台東区谷中霊園







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