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【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島 |
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-晋作の愛した下関- | ||||||
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本州最西端の地(毘沙ノ鼻)であり、豊かな農地と漁場に恵まれた地域で、古来より長門一宮の住吉神社の社領が多く点在していました。対馬海流が流れ込み、山を背にした海はミネラルが豊富で最良の漁場となっており、吉母・吉見の2つの漁村に恩恵を与えており、それに対して福江は南北に長い海岸線を持ち、耕地が広がる田園地帯となっていました。 現在は吉母に海水浴場、吉見には水産大学校や海上自衛隊下関基地が造られましたが、漁港としても機能しており、近海で獲れる魚を加工したかまぼこ・ちくわ・天ぷらなどが名産となっています。 |
吉母 | |
吉母浦 -応神天皇の生地とも云われる浦- |
吉母は神功皇后が応神天皇を生んだ地だったともされています。古くからの漁村ですが、応神天皇の出産の後は何年間か朝廷の人々が住んでいたともされ、吉母に鎮座する若宮神社は長門国一ノ宮である住吉神社の本宮という由緒があります。吉田松陰は北浦巡視で、蓋井島から吉母浦に立ち寄るつもりでしたが、逆潮であった為に断念して吉見に上陸しました。 場所:下関市吉母 |
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吉見 | |
吉見浦 -大規模な塩田のあった浦- |
吉見には大規模な塩田が中世より存在しており、江戸時代に入っても良質の塩が生成されていたという。塩は長州三白のひとつであり、支藩である長府藩も塩を作って財源に充てていたようです。吉田松陰は北浦巡視の際、行き帰り共に吉見に宿泊しました。 場所:下関市吉見 |
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福江 | |
福永正介の墓所 -中山忠光暗殺に関与したとされる剣豪- |
福永正介は長府藩の剣術および棒術師範であったらしく、福江で道場を開いていました。長州藩が中山忠光の暗殺を決定し、7名の刺客を田耕に派遣しますが、それとは別に野々村勘九郎率いる別働隊も、田耕へ向ったという説があります。この別働隊に武術の達人であった正介も参加し、忠光の向脛を棒で打って刈田に落としたという話も伝わります。また、隣の横野に一時期道場を構えていた島田虎之助の道場と争っていたともされています。 場所:下関市福江(八貫堤の北側の墓地) ブログ記事→下関市福江 福永正介墓 中山忠光暗殺実行犯?? |
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迫田為太郎の墓所 -長府報国隊の砲隊指令- |
福江村生まれの長州藩士で、長府報国隊に入隊し、小倉戦争では砲隊司令として従軍しました。その後、戊辰戦争でも北越軍会計主事として参加しますが、負傷して戦病死しています。 場所:下関市福江 ブログ記事→下関市福江 長府報国隊士迫田為太郎の墓 |
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