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【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

-晋作の愛した下関-

豊北町・豊浦町 / 豊田町・菊川町 / 吉母・吉見・福江 / 内日・井田・田倉 / 吉田・清末
安岡・綾羅木・延行 / 長府 / 市街(下関〜唐戸) / 彦島

長府
 長府は元々は「長戸国府」が置かれた地で、古くから発展していました。仲哀天皇の熊襲征討の際には仮の皇居「豊浦宮」も置かれ、香椎で崩御した仲哀天皇の仮埋葬も行われています。江戸時代に入ると長府藩の城下町として栄え、現在も武家屋敷が並ぶ古江小路などが残されています。

長府松小田

白石正一郎邸浜門
-幾多の志士が通った小倉屋の浜門-
竹崎の勤皇商人白石正一郎は、勤皇志士達の資金面の支援や、奇兵隊結成の金銭的援助などを惜しみませんでした。また攘夷戦争や小倉戦争などの影響によって家業の業績も悪化した為、最終的に破産してしまいます。屋敷は売却されて解体されてしまいましたが、奇跡的に移築された浜門が現存してる事が発見されました。
場所:下関市長府松小田本町11-26
ブログ記事→下関市長府 白石正一郎邸浜門


福昌寺
-小松田刑場にあった首切地蔵-
長府藩領で罪を犯した罪人を処刑した小松田刑場には、刑死した罪人達のあの世への道を示す役割を持つ首切地蔵が設置されていました。明治になって刑場が廃止された際、首切地蔵は長府藩の庇護を受けていた福昌寺が預かりました。
場所:下関市長府松小田中町9-4
ブログ記事→下関市長府 松小田刑場の首切地蔵

山陽道沿い(金屋町〜侍町)

大乗寺
-興膳昌蔵や奇兵隊士の墓所-
大乗寺は明治期に改称された寺名で、江戸時代は浄厳寺という寺名でした。早逝した長府藩祖毛利秀元の弟宮吉丸の菩提寺で、大乗寺墓地には多くの長府藩士の墓所があり、暗殺された興膳昌蔵や下関戦争で戦死した長府藩士、小倉戦争で戦死した奇兵隊士の墓もあります。
場所:下関市長府金屋町2-4
ブログ記事→下関市長府 大乗寺下関市長府 興膳昌蔵の墓を探す


正円寺
-砲術家河崎の墓所-
正円寺は境内に樹齢1000年を超える銀杏の巨木があります。河崎董は長府藩の洋式砲術師指南役で、長府藩の軍制改革に携わりました。大村益次郎と海防を論じ、奇兵隊幹部らに砲術や三兵の講義を行うなど、軍事的な才能を持った人物でしたが、体調を崩した為に明治政府に出仕せずに隠居しています。
場所:下関市長府中之町6-6
ブログ記事→下関市長府 正円寺~長府藩洋式砲術家 河崎董の墓所


長府藩侍屋敷長屋
-長府藩の武家長屋-
長府藩家老西家の分家で御馬廻役220石の西家屋敷の本門に付属していた長屋で、現在の位置より500mほど南にあったものを移築したもの。
場所:下関市長府侍町1-1-1
ブログ記事→下関市長府 長府藩侍屋敷長屋


印藤聿生家跡
-印藤聿の生家下村家の屋敷跡-
印藤聿は長府藩の重臣で、坂本龍馬の支援者のひとりでもありました。龍馬に三吉慎蔵を紹介したもの印藤とされています。
場所:下関市長府侍町2-2-31


敬業館及び集童場跡
-長府藩藩校跡-
長府藩校敬業館があった場所で、幕末期に藩庁が勝山に移された際に陣屋跡地に移転していますが、代わって15歳以下の少年を教育した集童場が移ってきました。後に再び敬業館が当地に戻って、両校は合併されています。
場所:下関市長府侍町2-3-26


旧野々村家表門
-長府報国隊総督泉十郎の屋敷門-
長府報国隊を創設した泉十郎(野々村勘九郎)の屋敷門で、現在は移築されて残っています。
場所:下関市長府侍町1-6-19
ブログ記事→下関市長府 旧野々村家表門


長州藩家老三吉周亮邸跡
-晋作・龍馬の理解者-
長府藩の尊攘派家老で、長府藩が五卿を功山寺に匿うに至ったのは、三吉周亮の決断によるもの。功山寺挙兵に際しては、藩公金3000両と銃器を渡しています。坂本龍馬の理解者のひとりでもありました。
場所:下関市長府侍町1-7-10

長府安養寺宮の内町

覚苑寺
-長府毛利家菩提寺のひとつ-
長府毛利家の菩提寺のひとつで、3代、6代、13代藩主の墓所があります。下関攘夷戦では、海岸に近い長府陣屋は危険であった為、勝山御殿が完成するまでの仮藩庁となりました。また、五卿の警備を名目として奇兵隊の駐屯地にもなっています。
場所:下関市長府安養寺3-3-8
ブログ記事→下関長府 覚苑寺


乃木神社
-乃木希典を祀る神社-
長府藩士であった乃木希典大将を祀る神社。乃木は長府報国隊に入隊して小倉戦争に参加、維新後は陸軍に出仕して、秋月の乱、西南戦争に従軍しました。境内には乃木邸が再現されている他、乃木と妻の静子の銅像や宝物館などかあります。
場所:下関市長府宮の内町3-37
ブログ記事→下関長府 乃木神社


忌宮神社
-仲哀天皇、神功皇后を祀る長門国二ノ宮-
神功皇后によって建てられた仲哀天皇を祀る神社で、後に神功皇后と応神天皇が合祀されています
。高い社格を有していましたが、長門国には住吉三神の荒魂を祀る住吉神社が存在する為、忌宮神社は二ノ宮とされました。境内には集童場の場長室が移築保存されている他、多くの石碑が建てられています。
場所:下関市長府宮の内町1-18
ブログ記事→下関長府 忌宮神社・修道場場長室

長府惣社町・川端

長府毛利邸
-明治期に建てられた長府毛利家邸宅-
最後の長府藩主であった毛利元敏によって建てられた長府毛利家の邸宅。明治天皇の行在所としても利用されており、武家屋敷造の母屋と日本庭園が残されています。
場所:下関市長府惣社町4-10
ブログ記事→
長府おさげものひなまつり


古江小路
-長府武家屋敷の雰囲気が残る小道-
長府の城下町の中で、最も当時の面影を残す小路。長府藩が京都より招き、侍医兼侍講職を代々務めさせた菅家の長屋門も現存しています。
場所:下関市惣社町と古江小路町の間


桂弥一旧宅
-志士の顕彰活動に尽力した桂弥一の宅-
元長府藩士桂弥一は、幕末維新の志士達の顕彰活動を行い、長門尊攘堂や万骨堂などを建てています。現在の旧宅は当時の雰囲気を残したまま、カフェとして運営されています。
場所:下関市長府川端2-1-6
ブログ記事→下関長府 旧桂弥一邸


功山寺
-高杉晋作が挙兵を行った維新回天の地-
鎌倉時代開山の古刹で国宝の仏殿を有する寺。五卿の長府滞在に使用され、高杉晋作が俗論党政権を打倒する為に挙兵した場所でもあります。
場所:下関市長府川端1-2-3
ブログ記事→

長府宮崎町・黒門東町

豊功神社
-歴代長府藩主を祀った神社-
忌宮神社の境内にあった歴代藩主を祀る豊功社が、大正6年に現在の地に移されたのが豊功神社。初日の出のスポットとしても知られ、境内には長府報国隊を顕彰する碑も建てられています。
場所:下関市長府宮崎町44-1
ブログ記事→下関長府 豊功神社


長府陣屋跡
-長府藩の藩庁跡-
櫛崎城が一国一城令によって廃城となった為、その三ノ丸に陣屋を構えて藩庁としたのが長府陣屋。下関攘夷戦の影響から藩庁が勝山に移るまで、長府藩5万石の藩庁として機能していました。現在は山口県立豊浦高等学校の敷地となっており、遺構らしきものはほとんどありません。
場所:下関市長府宮崎町1-1
ブログ記事→下関長府 長府陣屋跡


櫛崎城跡
-長府藩の藩庁跡-
長府藩初代藩主毛利秀元が居城とした城でしたが、一国一城令によって廃城となってしまい、長府藩は藩庁を三ノ丸に置いて長府陣屋としました。攘夷戦の際には本丸跡に台場が築かれ、外国船発見の役目を負いました。現在は関見台公園として整備されています。
場所:下関市長府外浦1
ブログ記事→
下関長府 櫛崎城跡

その他の長府地区

長府庭園
-長府藩家老西運長の屋敷-
長府藩家老西運長の屋敷で、山を背にした1万坪の広大な敷地に、回遊式庭園が設けられています。大正期に大洋漁業(現マルハニチロ)の中部幾次郎の所有となり、戦後の一時期はニュージーランド軍の司令官宿舎にもなっています。その後、下関市が買い取り整備されました。
場所:下関市長府黒門東町8-11


福原和勝旧宅跡
-長府報国隊軍監福原和勝の屋敷跡-
福原和勝は藩主護衛を務めるなど武芸に秀で、熊野則之らと共に長府報国隊を結成し、初代軍監となりました。幕長戦争、戊辰戦争に従軍し、維新後は陸軍に出仕し、佐賀の乱には参謀として参加しましたが、西南戦争で戦死しています。
場所:下関市長府黒門東町8-11




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