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【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊川町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島 |
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朝廷人物録 | ||||||
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朝廷 京都御所 1万石〜3万石程度 天皇家 当時の朝廷は政治的実権を取得することなく、幕府に定められた禁中並公家諸法度により、その言動も厳しく制限されていた。しかし、幕末におこった国学思想から来る尊王運動で有力諸藩の力を得て、また、幕府の威信の低下に応じて朝廷は徐々に発言力を回復する。そして、この発言力を元に朝廷は政局に大きな影響力を持った。 |
あ行 |
姉小路 公知 あねがこうじ きんとも (1839-1863) 公卿 | 開国派に転向し暗殺された長州派公卿 変名:- 主な役職:右近衛権少将、国事御用掛、摂海防備巡察、贈参議左近衛権中将 剣術:- 墓所:京都市上京区清浄華院 | ||
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有栖川宮幟仁親王 ありすがわのみや たかひと しんのう (1812-1886) 一品親王 | 政治から距離を置いた一品親王 文化9年、有栖川宮韶仁親王の第一王子として生まれる。元治元年、息子の熾仁親王とともに国事御用掛に任命されるが、直後に禁門の変が発生。その際、熾仁親王が長州の復権と松平容保の洛外追放を訴えて御所内で周旋活動をしたことから両親王は長州との通謀疑惑をかけられ、国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。慶応3年、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれたが、幟仁親王はこれ以降政治的な表舞台には姿をあらわさず、打診された国事御用掛への復職も辞退している。その後、慶応3年に一品に叙せられる。幟仁親王は政治から距離を置く代わりに、慶応4年に神祇事務科総督に就任し国家神道や国学の普及に努めた。明治4年、家督を熾仁親王に譲り正式に隠居した後も、神道総裁や皇典講究所総裁などを歴任した。明治19年、前年から胃癌で闘病していた幟仁親王は危篤に陥り、その報を知った明治天皇は急ぎ大勲位に叙し菊花大綬章を授けた。同日、73歳で薨去。 変名:八穂宮 主な役職:国事御用掛、皇典講究所総裁 剣術:- 墓所:東京都文京区豊島岡墓地 | ||
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有栖川宮熾仁親王 ありすがわのみや たるひと しんのう (1835-1895) 一品親王 | 東征大総督となった一品親王 変名:歓宮 主な役職:国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事、元老院議長、 鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主 剣術:- 墓所:東京都文京区豊島岡墓地 | ||
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岩倉 具視 いわくら ともみ (1825-1883) 公卿 | 明治政府の重鎮となった策士公卿 変名:堀河周丸、岩倉対岳、岩倉友山、 主な役職:参与、議定、大納言、右大臣 剣術:- 墓所:東京都品川区海晏寺 | ||
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正親町 公董 おおぎまち きんただ (1839-1879) 公卿 |
長州藩の攘夷決行を賞賛した朝廷の勅使 変名:- 主な役職:国事寄人、奥羽追討総督、陸軍少将 剣術:- 墓所:京都市左京区真正極楽寺 |
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正親町三条 実愛 おおぎまちさんじょう さねなる (1821-1909) 公卿 |
倒幕の密勅を手渡した討幕派公卿 変名:嵯峨実愛 主な役職:踏歌節会外弁、国事御用掛、議定、刑部卿、内国事務総督、教部卿 剣術:- 墓所:東京都文京区麟祥院 |
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か行 |
和宮親子内親王 かずのみや ちかこ ないしんのう (1846-1877) 贈一品内親王 | 武家に降嫁した最初で最後の皇女 弘化3年、仁孝天皇の第八皇女として生まれる。嘉永4年、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約。文久元年、公武合体策の一環として、14代将軍徳川家茂に降嫁。御所と大奥の暮らしに戸惑いながらも、夫である家茂との仲は良好であった。慶応元年、家茂は自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す。しかし、家茂は大坂城で脚気衝心のため薨去。和宮は落飾し、号を静寛院宮と改めた。大政奉還後は、徳川の家命嘆願に尽力。明治2年より明治7年までの5年間、京都に在住。既に東京に移っていた明治天皇の勧めにより、かねてから用意されていた麻布市兵衛町の御殿で3年あまりを過ごす。明治10年、脚気の治療の為、箱根に静養のため滞在したが、程なく薨去した。和宮は江戸時代のみならず日本史を通じて、皇女が武家に降嫁し関東下向した唯一の例である。 変名:静寛院宮 主な役職:第14代征夷大将軍正室 剣術:- 墓所:東京都港区増上寺 | ||
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北白川宮能久親王 きたしらかわのみや よしひさ しんのう (1847-1895) 無品親王 | 奥羽越列藩同盟に迎えられた幻の東武天皇 弘化4年、伏見宮邦家親王の第9王子として生まれる。安政5年、仁孝天皇の猶子となり親王宣下。慶応3年、江戸に下って上野寛永寺に入り、慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主日光輪王寺門跡を継承した。慶応4年、鳥羽伏見の戦いののち、幕府の依頼を受けて東征大総督有栖川宮熾仁親王を訪ね、新政府に徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一蹴された。その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。明治元年、仙台藩の降伏後、京都で蟄居を申し付けられる。翌年、処分を解かれる。明治3年から明治10年までドイツに留学。その後は陸軍の職務に励んだ。明治28年、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、台湾全土平定の直前に台南にて薨去した。 変名:満宮、輪王寺宮、鎮護王院宮、公現入道親王、陸運 主な役職:獨逸学協会初代総裁、大日本農会初代総裁、第四師団長、台湾征討近衛師団長、陸軍大将 剣術:- 墓所:東京都文京区豊島岡墓地 | ||
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久我 建通 こが たけみち (1815-1903) 公卿 | 内裏を掌握し四奸として避難された公卿 変名:久我素堂 主な役職:右近衛大将、国事御用掛、宮内省麝香間祗候、加茂社司、大教正、皇典講究所副総裁 剣術:- 墓所:京都市北区大徳寺三玄院 | ||
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近衛 忠煕 このえ ただひろ (1808-1898) 公卿 | 篤姫の養父となった公武合体派の公卿 変名:− 主な役職:関白内覧 剣術:− 墓所:東京都大東区津梁院墓地 | ||
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九条 尚忠 くじょう ひさただ (1798-1871) 公卿 | 幕府との協調路線を推進した公武合体派公卿 変名:− 主な役職:関白 剣術:− 墓所:京都市東山区東福寺 | ||
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九条 道孝 くじょう みちたか (1839-1906) 公卿 |
幕府との協調を模索した最後の藤氏長者 変名:九条道隆 主な役職:国事御用掛、左大臣、奥羽鎮撫総督、貴族院議員 剣術:− 墓所:京都市東山区東福寺 |
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久邇宮朝彦親王 くにのみや あさひこしんのう (1824-1991) 二品親王 | 八月十八日の政変で長州派公卿を排除した薩会派公卿 変名:成憲、尊応、尊融、獅子王院宮成憲、中川宮成憲、中川宮朝彦、賀陽宮朝彦 主な役職:国事御用掛、弾正尹 剣術:- 墓所:京都市東山区泉涌寺 | ||
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孝明天皇 こうめいてんのう (1831-1967) 天皇 | 外国を嫌い攘夷を望んだ幕末の天皇 変名:統仁、煕宮 主な役職:天皇 剣術:- 墓所:後月輪東山陵 | ||
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さ行 |
三条 実美 さんじょう さねとみ (1837-1891) 公卿 (七卿) | 長州藩と密接な関係を持った尊皇攘夷派公卿 変名:三条梨堂、三條 實美 主な役職:右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員 剣術:- 墓所:東京都文京区大塚護国寺 | ||
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三条西 季知 さんじょうにし すえとも (1811-1880) 公卿 (七卿) | 歌道の宗匠となった七卿落ちの一人 文化8年、京都に生まれる。長州派公家として活躍。文久3年、公武合体派の策略により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年には皇太后宮権大夫となった。 明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。 三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業とともに明治天皇の歌道師範となった。 また、三条西家は香道の宗匠家としても知られ、季知自身も公家文化を担うこの時代の文化人の一人であった。 変名:三条西子迪、榎木藤一郎、蓬翁 主な役職:権大納言、皇太后宮権大夫、参与、大教正兼神宮祭主 剣術:- 墓所:東京都台東区谷中霊園 | ||
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澤 宣嘉 さわ のぶよし (1836-1873) 公卿 (七卿) | 条約改正交渉の発端をつくった外務卿 変名:姉小路隈麿、澤隈麿 主な役職:九州鎮撫総督、長崎府知事、外務卿 剣術:- 墓所:東京都文京区伝通院 | ||
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四条 隆謌 しじょう たかうた (1828-1898) 公卿 (七卿) | 戊辰戦争を総督として戦った七卿落ちの一人 変名:- 主な役職:仙台追討総督、鎮台司令長官(大阪、名古屋、仙台)、元老院議官、貴族院議員 剣術:- 墓所:京都市左京区妙傳寺 | ||
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昭憲皇太后 しょうけんこうたいごう (1849-1914) 皇后 |
社会事業の発展や国産工業の奨励等に尽力した洋装をした初の皇后 嘉永2年、左大臣一条忠香の三女として生まれる。慶応3年、女流勤王論家若江薫子の推挙で睦仁親王の女御に治定。明治元年に皇后となる。新時代の皇后として社会事業、慈善事業の発展に貢献。欧米化政策の先頭に立って衣服の洋装化を推奨する。和歌や古典文学にも造詣が深く、3万6000首余りの短歌も残している。また、維新に倒れた者の家族に対する皇后名義での見舞金も多く出された。日露戦争前夜に坂本龍馬の夢を見たという話が広まり、国民の戦意向上に一役買ったという逸話が残される。明治45年、明治天皇が崩御すると皇太后となる。大正3年に死去。本来追号は「皇后」になるはずであったが、宮内省のミスで「皇太后」と大正天皇に上奏してしまい、そのまま御裁可されて「昭憲皇太后」として明治神宮の祭神となった。 変名:一条勝子、一条美子、富貴君、富美君、寿栄君 主な役職:皇后 剣術:- 墓所:京都市伏見区 伏見桃山東稜 |
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た行 |
鷹司 輔熙 たかつかさ すけひろ (1807-1878) 公卿 | 禁裏の政変に振り回された関白 変名:随楽 主な役職:国事御用掛、関白、議定、制度事務督、神祇官知事、留守長官 剣術:- 墓所:京都市右京区二尊院 | ||
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鷹司 政通 たかつかさ まさみち (1789-1868) 公卿 | 長期にわたり関白職に君臨した名門家公卿 変名:拙山 主な役職:関白、太政大臣、太閤 剣術:- 墓所:京都市右京区二尊院 | ||
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な行 |
中山 忠光 なかやま ただみつ (1845-1864) 公卿 | 藩内政変によって暗殺された尊皇攘夷派の急先鋒 変名:森俊斎、森秀斎、藤原忠光 主な役職:国事寄人、光明寺党党首、天誅組主将 剣術:- 墓所:下関市綾羅木中山神社 | ||
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中山 忠能 なかやま ただやす (1809-1888) 公卿 |
倒幕の密勅に署名した明治天皇の外祖父 変名:藤原忠能 主な役職:参議、議奏、議定、神祇伯宣教長官 剣術:- 墓所:東京都文京区豊島岡墓地 |
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錦小路 頼徳 にしきのこうじ よりのり (1835-1864) 公卿 (七卿) | 維新を待たずに逝った七卿落ちの一人 変名:唐橋頼徳、桑原頼太郎 主な役職:国事寄人 剣術:- 墓所:山口市赤妻町錦小路神社 | ||
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二条 斉敬 にじょう なりゆき (1716-1878) 公卿 | 攘夷派公卿を追放した公武合体派公卿 変名:− 主な役職:関白、大宮御所御用掛、麝香間祗候 剣術:- 墓所:京都市右京区二尊院 | ||
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仁和寺宮嘉彰親王 にんなじのみや よしあきら しんのう (1846-1903) 二品親王 |
皇族公務の原型を作った親王元帥 変名:仁和寺宮純仁親王、東伏見嘉彰親王、小松宮彰仁親王 主な役職:奥羽征討総督、近衛師団長、参謀総長、陸軍元帥 剣術:- 墓所:東京都文京区豊島岡墓地 |
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は行 |
東久世 通禧 ひがしくぜ みちとみ (1834-1912) 公卿 (七卿) | 明治初期の外交に尽力した七卿落ちの一人 変名:東久世竹亭、古帆軒 主な役職:仙台追討総督、鎮台司令長官(大阪、名古屋、仙台)、元老院議官、貴族院議員 剣術:- 墓所:東京都目黒区長泉院 | ||
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ま行 |
壬生 基修 みぶ もとおさ (1835-1906) 公卿 (七卿) | 新政府に参与として加わった七卿落ちの一人 天保6年、庭田重基の三男として生まれる。壬生道吉の養子となり、嘉永2年に昇殿。八月十八日の政変によって失脚。七卿落ちの一人となる。慶応3年の王政復古で帰京。明治後は県知事、東京府知事、元老院議官などを歴任した。明治28年、平安神宮初代宮司となる。明治39年、72歳で死去。 変名:庭田基修 主な役職:水原県知事、東京府知事、元老院議官、平安神宮初代宮司、大日本武徳会副会長 剣術:- 墓所:京都市嵯峨野二尊院 | ||
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明治天皇 めいじてんのう (1852-1912) 天皇 | 立憲君主制国家を確立させた近代天皇 変名:睦仁、祐宮 主な役職:天皇 剣術:- 墓所:京都市伏見区 伏見桃山陵 | ||
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