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【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊川町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島 |
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福岡藩人物録 | ||||||
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福岡藩 47万3000石 黒田家 福岡城 支藩:秋月藩 5万石 黒田家 秋月陣屋 筑前国のほぼ全域を領有した雄藩であり、黒田長政を祖とする黒田家が支配する。第11代藩主黒田斉溥は、西洋技術を積極的に取り入れ、精錬所や反射炉の建設、蒸気機関の製作、医術学校の建設や種痘の実施、炭鉱の開発を推進した。藩内では尊皇攘夷思想が盛んで、平野国臣、月形洗蔵などの諸藩に知られた尊攘志士を輩出している。しかし、乙丑の獄により多くの人材を失ったため、戊辰戦争以降の人材に事欠き、新政府から疎んじられることになる。 | |
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あ行 |
か行 |
加藤 司書 かとう ししょ (1830-1865) 福岡藩 |
第一次長州征伐軍を解兵させた福岡の勤皇家老 変名:加藤三太郎、加藤又左衛、加藤徳成 主な役職:福岡藩家老 剣術:- 墓所:博多区御供所町節信院 |
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黒田 長溥 くろだ ながひろ (1811-1887) 福岡藩 |
開明的であったが佐幕派藩主として藩内尊攘派を弾圧した福岡藩主 変名:黒田桃次郎、黒田斉溥、黒田官兵衛 主な役職:第11代藩主 剣術:- 墓所:東京都港区青山霊園 |
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さ行 |
た行 |
月形 洗蔵 つきかた せんぞう (1828-1865) 福岡藩 | 薩長同盟の起草文を考案し厚斡旋に尽力した尊皇派の主魁 変名:月形詳、月形伯安、月形駒之助、月形安之進 主な役職:- 剣術:- 墓所:福岡市天神大涼山少林寺 | ||
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な行 |
中村 円太 なかむら えんた (1835-1865) 福岡藩 |
高杉晋作に九州連合策を進言した福岡尊攘志士の重鎮 変名:中村無二、野唯人、東州、李不言斎 主な役職:修猷館訓導、忠勇隊参謀 剣術:- 墓所:福岡市中央区正光寺 |
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は行 |
平野 国臣 ひらの くにおみ (1828-1864) 福岡藩 |
尊攘英断録を記した生野の変の首謀者 文政11年、福岡藩士平野吉郎右衛門の二男として生まれ、小金丸彦六の養子となる。漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義に傾倒した。安政2年、有職故実家坂田諸遠の門人となる。尚古主義の影響で烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになり、養子先の小金丸家はその行為が迷惑として離縁させられる。安政5年、上京して尊皇攘夷運動に参加。安政5年、水戸藩士や薩摩藩士ら井伊直弼暗殺を計画。安政6年、桜田門外の変が起こると、福岡藩は変に関与した国臣の捕縛を命じ、国臣は捕縛を逃れるために脱藩。潜伏して、倒幕をうたった「尊攘英断録」を著わして薩摩藩に提出する。文久2年、一時福岡藩捕縛されるが、翌年釈放され、学習院出仕に任じられる。天誅組の変、八月十八日の政変を経て、攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、生野で挙兵して代官所を襲う。しかし、幕府の対応は早く、周辺諸藩の兵か出動し鎮圧される。豊岡藩兵に捕縛され、六角獄舎につながれた。元治元年、禁門の変を端にして発生した火災で獄舎に火が及び、囚人の脱走を恐れた役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首された。 変名: 平野次郎、平野巳之吉、平野種言、平野種徳 主な役職:- 剣術:神道夢想流杖術 墓所:京都市上京区竹林寺、京都霊山護国神社 |
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