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岩国藩人物録

岩国藩(吉川岩国領)
     6万石  吉川家 岩国城

岩国藩は、長州藩からは家臣であるとして支藩と認められず、幕府からは大名と扱われているという極めて変則的な立場であった。それは関ヶ原の戦いにおいて、藩祖吉川広家が東軍に内通して西軍の敗退を招き、120万石あった毛利領を36万石に減封させられたことに由来する。その後、幾度となく毛利宗家と対立しましたが、四境戦争から毛利宗家と行動を共にした。

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あ行


有坂 成章
ありさか なりあき
(1852-1915)
岩国藩

世界を震撼させた有坂銃・有坂砲の開発者
嘉永5年、吉川家家臣士木部左門の二男として生まれる。文久2年、同家臣有坂長良の養嗣子となった。日新隊に入隊し、鳥羽伏見の戦いに参加している。明治24年、村田銃の開発者村田経芳少将の退役に伴い、陸軍砲兵工廠所属となる。明治30年、三十年式歩兵銃の開発に成功し、それまで使われていた村田銃に代わり正式小銃として採用された。明治31年には三十一年式速射砲を開発。「有坂砲」と呼ばれた。日露戦争では、旅順要塞攻略の打開策として、国内の要塞砲を投入するよう進言し旅順攻略に貢献した。大正4年、死去。


変名:士木部四郎、有坂四郎
主な役職:陸軍技術審査部長、陸軍中将
剣術:−
墓所:岩国市錦見普済寺


井上 光
いのうえ ひかる
(1851-1908)
岩国藩

明治の戦争を歴戦した陸軍大将
嘉永4年、吉川家家臣森脇兵介の次男として生まれ、のちに同家臣井上光禎の養子となる。吉川領の軍政改革により、精義隊が発足するとこれに参加。戊辰戦争に従軍する。維新後は、大阪青年学舎生徒を経て陸軍士官となる。明治10年、西南戦争に出征。戦後、熊本鎮台幕僚参謀副長、名古屋鎮台参謀、西部監軍部参謀を歴任。日清、日露戦争に出征し、戦功により勲一等旭日大綬章と功二級金鵄勲章を賜わった。明治41年、陸軍大将に進むが、まもなく死去した。


変名:森脇復吉
主な役職:陸軍参謀長、陸軍師団長、陸軍大将
剣術:−
墓所:岩国市錦見普済寺


宇野 金太郎
うの きんたろう
(1828-1862)
岩国藩

箸で蝿をつまめたという伝説の剣豪
文政11年、吉川家家臣山形旦蔵の子として生まれ、のちに同家臣宇野正九郎の養子となる。当時岩国に道場を開いていた長谷川藤次郎に習い、のちに片山流片山久豊の門下となった。弘化3年、領校養老館の剣術師範に任命される。安政4年より諸国を遊学し、直新影流、北辰一刀流と交わり腕を磨いた。剣名は日本中に轟き、「岩国には錦帯橋と宇野があり」とまでいわれた。広島藩や掛川藩などからも、剣術指南として招かれている。文久2年、病を患い若くして死去した。


変名:宇野重義
主な役職:養老館剣術師範
剣術:片山流剣術、直心影流剣術、北辰一刀流剣術
墓所:岩国市錦見普済寺



か行


吉川 経健
きっかわ つねたけ
(1855-1909)
岩国藩

旧藩士の自立を支援し岩国の発展に尽力した最後の岩国藩主
安政2年、岩国領第12代当主吉川経幹の長男として生まれる。慶応3年、父経幹の死去により跡を継ぐが、長州藩主毛利敬親の命でその死去が隠されたため、正式に跡を継いだのは明治元年である。明治2年、版籍奉還により藩知事となる。明治3年、長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めた。明治4年に廃藩置県で免官となって東京へ移る。以後は旧藩士に対して義済堂を創設して、就業や育英事業などに尽力した。また地域の文化や教育、災害において多大な寄付を行っている。明治42年、死去。


変名:菊川芳之助
主な役職:第2代岩国藩主
剣術:−
墓所:岩国市横山洞泉寺山墓地


吉川 経幹
きっかわ つねまさ
(1829-1867)
岩国藩

本家との融和に務めた岩国領主
文政12年、岩国領第11代当主吉川経章の長男として生まれる。天保15年に家督を継ぐ。聡明な人物で、弘化4年)には藩校養老館を創設。さらに吉川広家以来、疎遠な関係にあった本家の長州藩との融和に努めた。幕末期の動乱の中では、懸命に本家を助け、元治元年の第1次長州征伐では仲介役として奔走。慶応2年の第2次長州征伐でも、芸州口の戦いで功績を挙げ、幕府軍を撃退した。しかし、慶応3年に死去。その存在が毛利氏の中では大きかったことから、毛利敬親の命令でその死は隠され、生存しているものとして慶応4年に新政府により正式な藩主として認められ、その上で明治元年、長男の経健に家督を譲って隠居したという形となった。正式な死は、明治2年に発表された。


変名:吉川駿河守、吉川監物、吉川亀之進
主な役職:岩国領12代当主、初代岩国藩主
剣術:−
墓所:岩国市横山洞泉寺山墓地


栗栖 天山
くるす てんざん
(1839-1867)
岩国藩

岩国領の尊王攘夷運動に邁進した岩国三士の一人
天保10年、吉川家家臣来栖某の子として生まれる。江戸に遊学して昌平黌で儒学を学ぶ。慶応元年、領校養老館の助教に就任。慶応2年、岩国藩の佐幕主義に不満を持ち、東沢瀉と共に尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、藩内の兵制改革を進める。その結果、精義隊、日新隊、建尚隊、敬威隊の四隊が編成される。しかし精義隊士の粗暴な挙動の責をとわれ、沢瀉と共に柱島へ流罪となった。その後、島を脱出して精義隊士らに尊皇の決起を訴えるが賛同を得られずに自害した。


変名:栗栖平次郎、栗栖靖、栗栖子共
主な役職:養老館助教、精義隊参謀
剣術:-
墓所:岩国市錦見妙覚院


さ行



た行


玉乃 世履
たまの せいり(よふみ)
(1825-1886)
岩国藩

謎の死を遂げた明治の今大岡
文政8年、吉川家家臣桂脩助の長男として生まれ、嘉永4年に領校養老館の学頭玉乃九華の養子となる。慶応2年、地域の農民を集め北門団を組織。四境戦争に参加した。慶応4年、岩国藩公儀人に任命される。会計官判事試補、民部官聴訟司知事、民部少丞、司法権大判事を歴任。明治8年、ボアソナードや名村泰蔵と共に拷問廃止を訴える。明治11年、初代大審院長に任命される。明治12年、司法大輔となり元老院議官も兼任。明治12年には治罪法草案審査委員に選出される。福島事件では、政府の圧力に屈せず大部分の被告を無罪とし、主要犯数名のみを軽刑に処した。明治19年、謎の自殺を遂げる。


変名:桂東平、桂泰吉郎、玉乃泰吉郎、玉乃五竜
主な役職:司法権大判事、大審院長、司法大輔
剣術:-
墓所:京都台東区谷中霊園


な行


南部 五竹
なんぶ ごちく
(1831-1867)
岩国藩

岩国領の尊王攘夷運動に邁進した岩国三士の一人
天保2年、吉川家家臣南部要介の長男として生まれる。弘化4年より領校養老館に学び、東沢瀉、大草馨堂と並んで学内の三博士と称せられる。安政5年、九州へ遊学し、肥後の木下犀潭に朱子学を学び帰国。岩国藩の佐幕主義に不満を持ち、参政山田城太郎に意見書を提出した。慶応2年、四境戦争後も佐幕に偏る政論を嘆き、剣豪として知られる福原範輔らと建尚隊を組織。東澤瀉と栗栖天山が柱島に流罪になると、建尚隊士らに沢瀉らの救出と奇兵隊への呼応を呼びかけるが、捕えられて斬首された。


変名:南部裕、南部俊三郎、南部君綽、白雲洞、清虚山人、白雲道人
主な役職:-
剣術:-
墓所:岩国市錦見岩国琥珀墓地




は行


長谷川 藤次郎
はせがわ とうじろう
(1818-1893)
岩国藩

真心自得流を開いた岩国の剣豪
文政元年、吉川家家臣長谷川某の子として生まれる。片山流片山久豊に剣術を学んで、岩国領で剣術道場を開いた。弘化4年、領校養老館の剣術師範となり、宇野金太郎と共に直心影流島田虎之助に誘われ、江戸に出てその門に入り、男谷精一郎にも師事して腕を磨く。その後、新派を立てて真心自得流と称した。帰国後、岩国領主吉川経幹の親衛士頭を務める。慶応2年の四境戦争では、芸州口の戦いに参加した。慶応3年、岩国領緒隊十二隊の剣槍掛として隊士の指導に当たった。明治26年、死去。


変名:長谷川親友
主な役職:養老館剣術師範
剣術:片山流剣術、直心影流剣術、真心自得流剣術
墓所:岩国市錦見普済寺


東 沢瀉
ひがし たくしゃ
(1832-1891)
岩国藩

岩国領の尊王攘夷運動に邁進した岩国三士の一人
天保3年、吉川家家臣東祐利の長男として生まれる。領校養老館で学び、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられる。文久3年、養老館の助教に任用されるが、わずか1年で辞任。岩国藩の佐幕主義に不満を持ち、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、藩内の兵制改革を進める。その結果、精義隊、日新隊、建尚隊、敬威隊の四隊が編成された。しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、慶応2年に栗栖天山と共に柱島へ流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出するが、沢瀉はそのまま柱島に留まった。明治2年に赦された。明治3年、保津村に沢瀉塾を開き、後進の教育に尽くした。明治24年、死去。


変名:東崇一郎、東正純、東白沙
主な役職:養老館助教、精義隊総督、沢瀉塾主宰
剣術:-
墓所:岩国市通津東沢瀉記念館


福原 範輔
ふくはら のりすけ
(1826-1893)
岩国藩

農兵を率いた柳生新陰流の剣豪
文政9年、吉川家家臣松田訓徳の次男として生まれ、同家臣福原至方の養子になる。幼少の頃より剣術に優れ、柳生新陰流桂六左衛門、内藤作兵衛に師事。九州や四国に遊学し、久留米藩の加藤田平八郎にも学ぶ。帰国後は、世子吉川経健の守役に選ばれた。慶応2年の四境戦争では、敢従隊隊長として芸州口の戦いに参戦。戦後は、南部五竹とともに建尚隊を組織し参謀となった。慶応4年の戊辰戦争では、建尚隊を率いて北越戦争に参加。維新後は、新湊で師弟達に剣術を教えて暮らした。明治26年、死去。


変名:福原至信、福原竹斎
主な役職:従隊隊長建尚隊参謀
剣術:柳生新陰流剣術
墓所:岩国市錦見普済寺


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