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【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊川町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関~唐戸)/彦島 |
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外国人人物録 | ||||||
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外国人 幕末期、鎖国してきた日本に大勢の外国人たちがやってきた。彼らは自国の国益のため、またはビジネスのために多くの日本人と関わることとなった。彼らの進んだ技術や思想は、幕末の日本人に多大なる影響を与えた。その中には日本を愛し、日本のために尽くした者もいた。 | |
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あ行 |
Thomas James Waters とーます うぉーとるす (1842-1892) アイルランド技師 |
銀座煉瓦街の建設に携わったアイルランドの建築家 変名:- 主な役職:- 剣術:- 墓所:- |
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Rutherford Alcock らざふぉーど おーるこっく (1809-1897) イギリス外交官 |
日本国内を娯楽として旅行した初めての外国人 安政6年、初代駐日総領事として来日。高輪東禅寺にイギリス総領事館を開いた。万延元年12月、米国駐日公使通訳ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われ死去。外国人の安全を保証できなため、外交団が横浜へ引き移ることを幕府に提案。米国公使らの反対もあったが、仏国公使と共に横浜へ移る。文久元年、英国公使館を攘夷派浪士が襲撃。ラザフォードは無事であったが、一等書記官と長崎駐在領事が負傷した。これを機に英水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになる。文久2年に一時帰国し、2年後の元治元年春に日本に帰任する。四国艦隊下関砲撃事件では主導的な役割を果たすが、これを認めなかったイギリス外相により帰国が命じられた。駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークスに引き継がれた。後に、ラザフォードの外交政策が評価されたため、日本への帰任を要請する声もあった。しかし、当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高いとされた清国駐在公使に任じられる。その後は王立地理学会や政府委員会委員などを歴任。1897年にロンドンで死去した。日本在任中、富士山に登頂したり、熱海の温泉地を訪れたり娯楽として日本国内を旅行した初めての外国人として記録されている。 変名:- 主な役職:イギリス駐日総領事、特命全権公使 剣術:- 墓所:- |
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か行 |
Andre Cazeneuve あんどれ かずぬーぶ (生年不明-1874) フランス軍人 |
旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人 変名:- 主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長 剣術:- 墓所:不明 |
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Willem Johan Cornelis ridder Huijssen van Kattendijke ぶぃれむ ほいせん ふぁん かってんでぃーけ (1816-1866) オランダ軍人 |
幕府に近代海軍教育を行ったフランス軍人 変名:- 主な役職:長崎海軍伝習所第2次教官 剣術:- 墓所:- |
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Woodthope Clark うっどそーぷ くらーく (1834-1867) イギリス商人 |
生麦事件で負傷したイギリスの商人 変名:- 主な役職:- 剣術:- 墓所:横浜市中区外国人墓地 |
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Thomas Blake Glover とーます ぶれーく ぐらばー (1838-1911) スコットランド商人 |
倒幕派を支援した死の商人 変名:- 主な役職:グラバー商会社長 剣術:- 墓所:長崎市坂本国際墓地 |
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さ行 |
Philipp Franz Balthasar von Siebold ふぃりっぷ ふらんつ ばるたざーる ふぉん しーぼると (1796-1866) ドイツ医師 |
鳴滝塾を創設し蘭学を広めた医師 変名:- 主な役職:鳴滝塾主宰 剣術:- 墓所:ミュンヘン旧南墓地 |
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Henry Stout へんりー すたうと (1838-1912) アメリカ宣教師 |
日本での布教活動に努めたアメリカ宣教師 変名:- 主な役職:東山学院・梅香崎女学校主宰 剣術:- 墓所:ニュージャージー州レイクハースト |
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た行 |
な行 |
は行 |
Harry Smith Parkes はりー ぱーくす (1828-1885) イギリス外交官 |
日米修好通商条約を締結した初代駐日公使 変名:- 主な役職:駐日英国大使、駐清英国大使、駐朝鮮英国大使 剣術:- 墓所:ロンドン市 聖ローレンス・ホィット教会 |
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Townsend Harris たうんぜんと はりす (1844-1922) アメリカ外交官 |
日米修好通商条約を締結した初代駐日公使 変名:- 主な役職:駐日米国弁理公使 剣術:- 墓所:ニューヨーク市グリーンウッド墓地 |
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Henry Conrad Joannes Heusken へんりー ひゅーすけん (1832-1861) アメリカ通訳 |
兇刃に倒れたアメリカ人通訳 変名:ヘンドリック・フースケン 主な役職:米国総領事館通弁官 剣術:- 墓所:東京都港区光林寺 |
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Eugene Miller Van Reed ゆーじん ぶぁんりーど (1835-1873) アメリカ商人 |
ハワイの日本人移民の先駆けを行った米商人 アメリカに滞在していた浜田彦蔵と知り合い日本に対する関心を深め、神奈川にあった米国総領事館の書記生として日本に来日した。一旦アメリカに帰国した後、慶応2年にハワイ王国総領事の資格を得て再来日をし、幕府と国交締結交渉を行うが失敗。そのまま横浜に滞在して貿易商を開業して、東北地方諸藩との取引を行った。慶応4年、幕府に対して日本人のハワイ移住に関する許可を獲得。江戸幕府解体後に設置された明治政府の横浜裁判所に募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行う。これに対して裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認。更に王政復古後の幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とした。これに対して彼は無効処分の取り消しか、賠償金4,000ドルを要求する一方で、英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行した。このときの移民が、後の日系アメリカ人成立のさきがけとなった。また、グアムへの移民の斡旋も行っている。明治4年、アメリカ合衆国の仲介で正式に日本とハワイの国交が結ばれると、ヴァンリードの資格が問題となったが、ハワイ王国から全権の資格を得ていたアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグの計らいで領事業務に限定することを条件に総領事としての立場を認めることとなった。翌年にはハワイ王国から改めて総領事に任命された。ホノルル滞在中に病没。 変名:- 主な役職:ハワイ王国総領事 剣術:- 墓所:不明 |
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Francois Leonce Verny れおんす ぶぇるにー (1835-1873) フランス技師 |
日本の近代化を支援したフランス人技師 元治元年、近代的造兵廠の建設のため来日。駐日公使レオン・ロッシュらと横須賀製鉄所の起立原案を提出した。慶応元年、造兵廠建設に必要な物品の購入や技術者を手配するために、日本を発ちフランスに一時帰国する。慶応2年に帰国後、工事開始。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、フランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が建設される。慶応4年、戊辰戦争が勃発し、新政府軍が箱根まで進出してきたため、横浜居留地へ退去するようフランス人に指示が出たが、横須賀にとどまる。その後、神奈川裁判所総督東久世通禧と副総督鍋島直大によって横須賀製鉄所が接収された。予算難の新政府は工事の中断を検討したが、ヴェルニーらの反対によって建設の継続が決定。同年、観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わった。またアジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わった。 変名:- 主な役職:- 剣術:- 墓所:- |
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Guido Herman Fridolin Verbeck ぐいど ぶぇるべっく (1811-1863) アメリカ宣教師 |
日本の近代化に貢献したアメリカ宣教師 変名:グイド・フルベッキ 主な役職:大学南校教頭、明治学院理事、旧約聖書翻訳委員 剣術:- 墓所:東京都港区青山霊園 |
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Arthur Fortant あるてゅーる ふぉるたん (生没年不明) フランス軍人 |
旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人 変名:- 主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長 剣術:- 墓所:不明 |
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François Bouffier ふらんそわ ぶっふぃえ (1844-1881) フランス軍人 |
旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人 変名:- 主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長 剣術:- 墓所:横浜市中区横浜外国人墓地 |
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Jules Brunet じゅーる ぶりゅね (1838-1911) フランス軍人 |
旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人 変名:- 主な役職:フランス軍事顧問団副隊長 剣術:- 墓所:パリ東墓地 |
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James Bruce じぇーむす ぶるーす (1811-1863) イギリス外交官 |
日英修好通商条約を調印したイギリス使節団の代表 変名:- 主な役職:第8代エルギン伯爵、イギリス使節団代表 剣術:- 墓所:- |
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James Curtis Hepburn じぇーむす かーてぃす へぼん (1815-1911) アメリカ医師、宣教師 |
ヘボン式ローマ字を考案した医療伝道宣教師 変名:- 主な役職:明治学院初代総理 剣術:- 墓所:神戸市北区神戸外国人墓地 |
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Matthew Calbraith Perry ましゅー かるぶれいす ぺりー (1794-1858) アメリカ軍人 |
太平の眠りを覚ました黒船艦隊の司令官 1809年、海軍に入隊。米英戦争に2人の兄とともに参加する。ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、アメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲート艦フルトン号を建造し、海軍大佐に昇進した。1840年には同海軍工廠の司令官となり代将に昇進。米墨戦争が勃発すると、ミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。1852年、東インド艦隊司令長官に就任。フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊は嘉永6年、浦賀に入港。幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸。大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。太平天国の乱がおこり、米国での極東事情が変化する中、嘉永7年に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。帰国した後は遠征記などを記す。1858年ニューヨークで死去。 変名:- 主な役職:東インド艦隊司令長官 剣術:- 墓所:ロードアイランド州アイランド墓地 |
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ま行 |
William Marshall ういりあむ まーしゃる (1827-1873) イギリス商人 |
生麦事件で負傷したイギリスの商人 変名:- 主な役職:- 剣術:- 墓所:横浜市中区外国人墓地 |
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Jean Marlin じゃん まるらん (1833-1872) フランス軍人 |
旧幕府軍とともに、箱館戦争を戦ったフランス軍人 変名:- 主な役職:フランス軍事顧問団員、列士満隊長 剣術:- 墓所:神戸市北区神戸外国人墓地 |
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や行 |
ら行 |
Gerhard Christiaan Coenraad Pels Rijcken へるはると らいけん (1810-1889) オランダ軍人 |
長崎海軍伝習所のスパルタ教官 変名:- 主な役職:長崎海軍伝習所第1次教官、オランダ海軍大臣 剣術:- 墓所:- |
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Charles Richardson ちゃーるず りちゃーどそん (1834-1862) イギリス商人 |
生麦事件で殺害されたイギリス商人 変名:- 主な役職:駐日本アメリカ合衆国弁理公使 剣術:- 墓所:横浜市中区横浜外国人墓地 |
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わ行 |
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