【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩
【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問
【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊川町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関〜唐戸)/彦島

島津家一門人物録

島津家一門

始祖島津忠久が薩摩、大隅、日向の3国の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらに戦国大名へと発展した島津家は、江戸時代を通じて外様大名薩摩藩主家となり、幕末には雄藩として明治維新の原動力となった。歴代当主に有能な人物が多かったことから、「島津に暗君なし」と称えられる。


※島津家一門人物録はこちらから。佐土原藩人物録はこちらから。

島津宗家(薩摩 大隅国主)77万石


島津 忠義
しまづ ただよし
(1840-1897)

実権を持たなかった薩摩藩最後の藩主
天保11年、薩摩藩国父島津久光の長男として生まれる。11代藩主斉彬の養嗣子となり、安政5年の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐ。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父久光や西郷隆盛、大久保利通らに掌握され、忠義自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった。15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛。王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。明治維新後は長土肥三藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。明治4年の廃藩置県後は公爵となる。以後、政府の命により東京に在住。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関っていない。明治30年、鹿児島市にて薨去。


変名:島津壮之助、島津忠徳、島津茂久、島津又次郎
主な役職:12代薩摩藩主、薩摩藩知事、貴族院公爵議員
剣術:−
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺跡 鹿児島市照国町照国神社


島津 斉彬
しまづ なりあきら
(1809-1858)

幕末薩摩藩を改革した賢君
文化6年、薩摩藩第10代藩主島津斉興の長男として生まれる。家督相続に関してはお由羅騒動と呼ばれるお家騒動を経て第11代藩主に就任した。藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永4年、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年、洋式帆船いろは丸を完成させ、西洋式軍艦昇平丸を建造し幕府に献上した。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船雲行丸として結実させた。日の丸を日本船章にすべきだと幕府に献策し、すでに浦賀奉行からも同様の献策を受けていた幕府は、徳川斉昭の後押しもあってこれを採用した。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。斉彬は幕政にも積極的に口を挟み、老中阿部正弘に幕政改革を訴えた。その後、阿部正弘の死後に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、第14代将軍は徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。斉彬はこれに対し、藩兵を率いて抗議のため上洛することを計画したが、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し死去した。


変名:島津邦丸、島津忠方、島津又三郎、島津惟敬、島津麟洲、順聖院
主な役職:11代薩摩藩主
剣術:−
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺跡 鹿児島市照国町照国神社


島津 斉興
しまづ なりおき
(1791-1859)

側室お由羅の溺愛により藩政の混乱を招いた薩摩藩主
寛政3年、薩摩藩第9代藩主島津斉宣の長男として生まれる。 文化6年、父の強制隠居に伴い家督を継いで第10代藩主となる。しかし藩主になったとはいえ、藩政改革などの実権は祖父重豪に握られた。天保4年、重豪が死去してようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。調所主導の元、借金の250年分割支払いや清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。この頃、長男斉彬と、側室お由羅の方との間の五男久光との間で後継者争いが起こる。斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者が多く、お家騒動に発展。斉彬派のお由羅の暗殺未遂などが勃発した。嘉永4年、老中阿部正弘の調停により斉興は隠居し、斉彬に家督を譲った。安政5年、斉彬が急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男島津忠義が継いだが、忠義が若年であることを理由に再び藩政を掌握し、西郷隆盛を始めとする斉彬派の家臣を粛清し、集成館事業を一時廃止した。このため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した薩摩藩政は大混乱したが、翌安政6年に死去した。


変名:島津忠温
主な役職:10代薩摩藩主
剣術:−
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺跡


島津 久光
しまづ ひさみつ
(1817-1887)
幕末薩摩藩の実権を握った薩摩藩国父
文化14年、薩摩藩第10代藩主島津斉興の5男として生まれる。11代藩主の座をめぐるお家騒動「お由羅騒動」で斉彬と藩主の座を争うが敗れる。安政5年、斉彬が急死すると、遺言に従い息子の島津忠義を藩主とし、藩主の父として藩政に深く関わる。文久2年、公武合体運動推進のため兵を率いて上京。 京都滞在中、伏見の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こす。また、帰路に生麦にて久光の行列の前を馬で横切ったイギリス人が無礼であるとして斬殺する。この件にイギリス政府は激怒し薩英戦争へと発展した。しかし、戦後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。維新後も薩摩における権力を握り続けたが、新政府が進める急進的改革に批判的立場をとる。鹿児島で隠居生活を送り、政府による廃刀令等の開化政策に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかった。明治10年、西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光は太政大臣三条実美への上書において中立の立場にあることを表明。また戦火を避けるため、桜島に一時避難した。明治20年、死去。

変名:島津普之進、島津又次郎、島津山城、島津周防、島津和泉、島津三郎、島津忠教、島津君輝、
島津邦行、島津徳洋、島津大簡、島津双松、玩古道人、無志翁
主な役職:重富島津家5代当主、玉里島津家初代当主、参議、麝香間祗候、内閣顧問
剣術:−
墓所:鹿児島市池之上町福昌寺跡 鹿児島市照国町照国神社


□ 支藩 □


佐土原島津家(城主)2万7000石

島津 啓次郎
しまづ けいじろう
砂土原藩人物録へ

島津 忠亮
しまづ ただあきら
砂土原藩人物録へ

島津 忠寛
しまづ ただひろ
砂土原藩人物録へ


□ 御一門 □


加治木島津家(御一門)1万7000石

初代薩摩藩主島津家久の三男島津忠朗が、祖父島津義弘の隠居領である加治木1万石と、加治木衆317家を拝領し、加治木島津家を創設。御一門第二位の家格として維新後に男爵家となる。


島津久宝
しまづ ひさたか
(1852-1887)
加治木領を返還した最後の加治木領主
嘉永5年、加治木島津家9代当主島津久長の子として生まれる。 安政4年に家督を相続。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、日州高岡の警備に当たり、その後の戊辰戦争には手勢を派遣した。明治2年の版籍奉還に伴い加治木領を返還、鹿児島城下に移居する。 明治20年、死去。

変名:島津岩松、島津又八郎、島津兵庫
主な役職:加治木島津家10代当主、東目総督
剣術:-
墓所:姶良市加治木町日木山123-3能仁寺墓地


島津久長
しまづ ひさなが
(1818-1857)
軍備増強に着手して斉彬に賞賛された加治木領主
文化15年、加治木島津家8代当主島津久徳の子として生まれる。嘉永3年に家督を相続。嘉永5年、薩摩藩11代藩主島津斉彬の参勤で江戸に随従し、一橋家9代当主徳川慶喜に謁見する。国元では海軍整備や大砲の鋳造などの軍備に従事して、斉彬の賞賛を受けている。安政3年、死去。

変名:島津善次郎、島津又八郎、島津兵庫
主な役職:加治木島津家9代当主
剣術:-
墓所:姶良市加治木町日木山123-3能仁寺墓地



垂水島津家(御一門)1万8000石

佐土原初代藩主島津以久の長男(佐土原藩は三男の忠興が継ぐ)で、文禄の役で朝鮮で病没した垂水領主島津彰久を祖する。御一門第三位の家格を有し、維新後に男爵家となる。


島津貴敦
しまづ たかあつ
(1832-1890)
将軍御台所候補を妻とした垂水島津家当主
天保3年、垂水島津家13代当主島津貴典の長男として生まれる。南部藩8代藩主南部信順が薩摩8代藩主島津重豪の14男であった事から、信順の娘八百屋姫を正室に迎える。八百姫は将軍御台所候補として名前が挙がっていたが、信順は姫の将来の諸状を案じていち早く垂水島津家の輿入れを決めてしまう。その代わりに今和泉島津家の篤姫が、将軍御台所に選ばれたという経緯がある。明治23年、死去。


変名:島津讃岐
主な役職:垂水島津家14代当主
剣術:-
墓所:垂水市田神上ノ平添 垂水島津家墓地

八百姫
やおひめ
(1832-1877)
八戸藩主南部信順の娘で、垂水島津家14代当主島津貴敦に嫁ぐ。容姿端麗で徳川家定の正室候補にもなった。



重富島津家(御一門)1万4000石

加治木島津家、垂水島津家より後に興されたが、重富島津家の前身である越前島津家が、室町幕府直謹であった為に御一門筆頭の家格とされた。5代当主島津忠教は、後の薩摩藩12代藩主島津忠義の父である島津久光。

島津 珍彦
しまづ うずひこ
(1844-1910)

久光の宗家復帰により家督を継いだ重富島津家当主
天保15年、重富島津家5代当主島津久光の四男として生まれる。久光が島津家宗家へ復帰した為、重富島津家を相続。禁門の変や戊辰戦争、箱館戦争に従軍する。維新後は、照国神社宮司や鹿児島県立中学造士館館長を歴任。明治23年、貴族院多額納税者議員に任命され、明治30年には貴族院男爵議員に選出された。明治43年、死去。



変名:島津敬四郎、島津又次郎、島津周防、島津常陸、島津備後、島津紀寛、島津忠鑑
主な役職:重富島津家6代当主、貴族院議員
剣術:-
墓所:姶良市平松6196番地 紹隆寺墓地

島津 久光
しまづ ひさみつ
島津宗家の項参照。



今和泉島津家(御一門)1万5000石

島津家4代島津忠宗の次男島津忠氏が興した和泉島津家は、川辺城の戦いで5代当主島津直久が討死してから長らく途絶えていたが、薩摩藩5代藩主島津継豊の弟島津忠卿が和泉島津家を再興し今和泉島津家となった。第13代将軍徳川家定の御台所天璋院(篤姫)は、10代当主島津忠剛の長女。

島津忠敬
しまづ ただゆき
(1832-1892)
兄の早世により跡を継いだ妾腹の子
天保3年、今和泉島津家10代当主島津忠剛の3男として生まれる。安政6年、兄の今和泉島津家11代当主島津忠冬の死去に伴い家督を継ぐ。文久3年の薩英戦争では、先代の忠冬の養子島津忠欽と共に英国軍を迎撃している。明治27年、死去


変名:島津峯熊、島津峯之助、島津安芸、卿清
主な役職:今泉島津12代当主
剣術:-
墓所:指宿市今和泉 今和泉島津家墓地


島津忠冬
しまづ ただふゆ
(1827-1859)
早世した今泉家11代当主
文政10年、今和泉島津家10代当主島津忠剛の長男として生まれる。安政元年年、父忠剛の死去に伴い家督を相続。安政6年、死去


変名:島津三次郎、島津因幡
主な役職:今泉島津11代当主
剣術:-
墓所:指宿市今和泉 今和泉島津家墓地

篤姫
あつひめ
幕末の女性人物録へ



□ 大身分 □


日置島津家(大身分)9000石

島津宗家15代当主島津貴久の三男で、豊臣秀吉に最後まで抵抗した島津歳久の系譜。歳久の孫島津常久が跡を継いて日置島津家を興す。

島津 久徴
しまづ ひさなる
(1819-1870)
幕末薩摩藩の主席家老
文政2年、日置島津家11代当主島津久風の長男として生まれる。薩摩藩11代藩主島津斉彬、12代藩主忠義の時代に主席家老として藩政に関わる。弟に西南戦争で戦死した桂久武や、お由羅騒動で自刃した赤山靭負がいる。明治2年、死去。


変名:島津下総、島津左衛門
主な役職:日置島津家12代当主、薩摩藩主席家老
剣術:-
墓所:-

桂 久武
かつら ひさたけ
11代当主島津久風五男。薩摩藩人物録へ

赤山 靭負
あかやま ゆきえ
11代当主島津久風次男。薩摩藩人物録へ


花岡島津家(大身分)

薩摩藩4代藩主島津吉貴の弟島津久儔が、花岡を拝領してを与えられて花岡島津家を創設。2代当主島津久尚の正室岩子が領民の水不足を憂い、用水路などの治水対策を行ったことが知られている。
島津 久敬
しまづ ひさたか
花岡島津家7代当主。薩摩藩家老。墓所は代々鹿屋市花岡町 花岡島津氏歴代墓地。



都城島津家(大身分)3万9000石

足利幕府より薩摩迫一帯を与えらえた北郷家が、島津の従属して島津姓を与えられ都城島津家となる。島津宗家より何度も養子を入れたことにより、北郷家嫡流の血統は途絶えている。

島津 久静
しまづ ひさなが
(1832-1862)
京都で急死した都城島津家当主
天保3年、都城島津家24代当主島津久本の長男として生まれる。父が布いた百姓寄合田制度を発展させ、その制度を郷士にも適用した衆中寄合田制度を開始させる。安政6年、藩主島津茂久の名代として江戸に出府。文久2年、島津久光の上洛に先立って三百余名の兵を率いて上洛した。久光東下の際には、留守を担当して御所の警備などを行うが、麻疹に罹って伏見で急逝する。


変名:島津出雲、島津石見
主な役職:都城島津家25代当主、東目海岸防御総頭取、薩摩藩家老
剣術:-
墓所:都城市都島町 都城島津家墓地


島津 久寛
しまづ ひさひろ
(1859-1884)
領民・家臣ら要請に応じて都城に帰ってきた都城島津家当主
安政6年、都城島津家25代当主島津久静の長男として生まれる。文久2年に父久静が伏見にて病死したため、4歳で家督を相続。隠居していた祖父の島津久本が後見役となり、叔父の北郷資恭が大隅半島沿岸防御の陣代となった。慶応元年、大宰府の三条実美ら五卿の警護に家臣14名を派遣。慶応2年、家臣が佐幕派と尊皇派に分かれて争い、家老の北郷資雄らが尊皇派15名を弾圧する都城崩れ(誠忠派崩れ)がおきる。戊辰戦争には家臣200名弱を派遣。この功績により都城島津家は後に男爵家となる。明治2年、版籍奉還に倣い私領を返上。鹿児島へ移住する。明治12年、旧家臣らの要請に応じ鹿児島から都城へ移住。明治17年、死去。


変名:島津元丸
主な役職:都城島津家26代当主、東目海岸防御総頭取、薩摩藩家老
剣術:-
墓所:都城市都島町 都城島津家墓地


島津 久本
しまづ ひさもと
(1803-1868)
幕末の都城を取り仕切った都城島津家当主
享和3年、都城島津家23代当主島津久統の長男として生まれる。百姓寄合田制度を布き農業の推進を図ったり、軍制改革や産業の育成に取り組むなど積極的に自領の発展に力を注ぐ。東目海岸防御総頭取に任じられ、大隅半島の沿岸防御に当たった。安政3年、嫡男の島津久静に家督を譲る。が、文久2年に久静が病死し、久静の長男島津久寛が家督を継ぐが、幼少であった為に再び政務に参加した。明治元年、死去。


変名:島津久広、島津播磨、島津豊前
主な役職:都城島津家24代当主、東目海岸防御総頭取、薩摩藩家老
剣術:-
墓所:都城市都島町 都城島津家墓地


宮之城島津家(大身分)1万5000石

武勇に秀で朝鮮の役では、100倍の明軍を打ち破った島津宗家15代当主島津貴久の孫島津忠長が、その軍功により宮之城を拝領し、宮之城島津家と呼ばれた。

島津 久治
しまづ ひさはる
(1841-1872)
要職を歴任しながら悲劇の最後を遂げた島津家一門
天保12年、薩摩藩国父島津久光の次男として生まれる。嘉永5年、宮之城島津家の養嗣子となり家督を相続。文政2年に海防総頭取に任命され、薩摩藩の沿岸防衛を担当する。文久3年の薩英戦争では、鹿児島藩海軍の指揮を執った。元治元年の禁門の変でも、皇居警衛総督として長州軍と戦う。同年、薩英戦争講和使節代表となり長崎を訪問。慶応2年に家老に就任する。戊辰戦争では家臣を会津藩攻撃に向かわせたが、本人は参加しなかったため川村純義ら若手藩士に、藩主島津忠義の目前で詰問される屈辱を受けた。明治5年、死去。西郷隆盛の書簡では「ピストル自殺」とされている。

変名:島津図書
主な役職:宮之城島津家15代当主、海防総頭取、皇居警衛総督、薩摩藩家老
剣術:−
墓所:薩摩郡さつま町宗功寺公園



□ その他諸流 □




島津 久宝
しまづ ひさたか
(1801-1873)
豊州島津家15代当主。薩摩藩家老。墓所は川内市祁答院 豊州島津家墓所。

島津 久敬
しまづ ひさたか
(1829-1868?)
篤姫の実兄。永吉島津家の養子となる。墓所は日置市吹上町永吉 永吉島津家歴代墓

島津 久福
しまづ ひさとみ
(1804-1869)
豊州島津家21代当主。墓所は南九州市知覧町郡 島津墓地。

島津 久容
しまづ ひさなり
(1842-1890)
佐志島津家11代当主





トップページへ