下関と高杉晋作が深く結びついたのは、文久3年(1863)頃です。長州藩は攘夷を決行し関門海峡を通る外国船に対し砲撃を加えます。その報復として米仏の軍艦が下関に対して報復砲撃を開始。前田や壇ノ浦の砲台を沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠しました。欧米の軍事力の手強さを思い知らされた長州藩は、高杉晋作に下関防衛を任命します。高杉晋作は、廻船問屋小倉屋の白石正一郎の後ろ盾を得て、下級武士や農民・町人からなる志願兵による軍隊(奇兵隊)を結成します。しかし教法寺事件の責任を問われ、総監を罷免されて下関を離れます。その後、八月十八日政変からなる長州兵の暴発を止めるべく脱藩しますが、その罪で投獄・謹慎処分を受けました。
下関に再び高杉晋作が戻るのは、下関戦争の講和条約での交渉においてです。その際に英国軍の彦島の租借要求を跳ね除けたことが、日本領土の植民地化を防いだといわれています。その後、長州藩の俗論党の台頭に危険を感じて下関から逃亡。俗論党の弾圧行為に対抗すべく機を見て下関に舞い戻り、功山寺にて挙兵します。下関を拠点に攻め上り、軍事クーデターを成功させます。第二次長州征伐では、海軍総督として小倉口を担当。四境戦争最大の激戦を制しますが、労咳の為に療養生活に入ります。
短い余生を下関で過ごし、大政奉還を見ることなく27歳の短いながらも激しい生涯を閉じました。
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