-晋作の生まれ育った萩-

高杉晋作像/晋作が愛した下関(彦島/下関駅周辺/唐戸/長府/吉田/その他)/晋作が生まれ育った萩/新しい政治拠点山口/その他
関ヶ原の戦いに敗れた西軍の総大将であった毛利輝元は、その責任を問われ中国地方10カ国120万石であった領地を、周防・長門2国36万石に減らされました。また、交通の便の良い防府や山口に本拠を置くことを願い出ますが、却下されて三方を山に囲まれた萩を本拠とすることを強要されました。この屈辱で毛利家臣団は、江戸時代を通じて幕府に反感を持っていました。新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという伝説もあります。幕末に藩庁を山口に移転するまでの250年間、長州藩の本拠地でした。城下には、幕末の英雄や明治の元勲たちの誕生地や史跡が多く存在し、幕末ファンを魅了します。

-呉服町-

高杉晋作誕生地
大組士200石高杉家邸宅。当時の規模より縮小はしていますが、庭や玄関から生家の様子を見ることができます。高杉晋作ゆかりの品が展示され、句碑や産湯の井戸などがあります。
場所:萩市南古萩町23

円政寺
当時は法光院と呼ばれた毛利家の祈願寺でした。近所の子供達に読み書きを教える寺子屋もありました。幼い高杉晋作や伊藤博文もここで習っていました。寺の境内には金毘羅社があり、朱色にぬられた大きな天狗の面がかけられ、高杉晋作や桂小五郎が幼いころに見に行ったといわれています。また、晋作が遊んだ木馬(神馬)も残っています。
場所:萩市南古萩町6

青木周弼旧宅
毛利敬親の侍医を務めた青木周弼の旧宅です。当時、日本屈指の蘭学医でもありました。疱瘡を患った高杉晋作を治療したのは、この青木周弼といわれています。医学館好生堂創設にかかわり、防長医学の発展に大きく貢献しました。
場所:萩市南古萩町

木戸孝允旧宅
桂小五郎(木戸孝允)が生まれ育った家です。誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されています。建物内にはボランティアガイドが常駐しているので周辺の史跡探索の拠点になります。
場所:萩市呉服町2-37

高杉晋作立志像
明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しい高杉晋作をイメージした銅像が建つ晋作公園です。公園内には晋作が好きだった梅の木が植樹されています。
場所:萩市南古萩町 晋作広場



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-堀内-

萩城跡
毛利36万石の主城があった場所です。萩城は別名指月城とも呼ばれ、指月山のふもとの平城と山頂の山城とを合わせた平山城でした。幕末、山口に藩庁を移すまで、歴代藩主が政治を行っていました。関が原の戦いの後に建設された城ですが、戦闘要塞の機能を持った構えとなっています。明治7年の廃城令により、天守や櫓などの建物は破却されました。
場所:萩市堀内指月公園

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
毛利家一門家老厚狭毛利家の萩屋敷です。厚狭毛利家は、毛利元就の五男毛利元秋を祖とし、厚狭を所領としたため、厚狭毛利と呼ばれました。萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇ります。
場所:萩市堀内

旧福原家萩屋敷門
長州藩永代家老福原家の萩屋敷の表門です。萩に現存する武家屋敷門のほとんどが、門番所のある長屋門ですが、門番所のない珍しい門です。福原家は第一次長州征伐で殉難した福原越後を輩出しています。
場所:萩市堀内

旧益田家物見矢倉
長州藩永代家老益田家の萩屋敷の物見矢倉です。単層の堅固な建築で矢倉長屋と称され物見も兼ねていたそうです。益田親施は攘夷派の家老で、禁門の変に出陣して長州軍を指揮しています。敗戦後、福原越後、国司信濃と共に切腹しました。
場所:萩市堀内

国司親相旧宅跡
長州藩寄組国司家の屋敷跡です。幕末の当主国司信濃(親相)は、八月十八日の政変後に家老に昇進しますが、禁門の変に破れて益田親施、福原越後と共に切腹しました。
場所:萩市堀内

旧明倫館跡
藩校明倫館は、第5代藩主毛利吉元によって創建されました。水戸の弘道館、岡山の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つとされています。吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、井上聞多などが、ここで学んでいます。
場所:萩市堀内



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