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丙辰丸
山口県文書館蔵


象山神社
長野市松代町松代竹山町1502



横井小楠寄留宅跡
福井市中央3丁目11

結婚~試撃行

安政7年、晋作は井上平右衛門の次女雅と結婚する。井上家は高杉家より家禄が高く、しかも雅自身は防長一の美人とうたわれた器量良しであった。それだけに雅には縁談話が多く、高杉家に嫁ぐことを決めた理由はクジであったといわれている。一方、晋作は師匠である吉田松陰を安政の大獄で失い失意の最中であったが、松陰の遺言でもある「妻をめとり、両親を安心させなさい」の教えを守ったのか、結婚に了承した。
結婚後1ヶ月余りで晋作は明倫館を退館し、藩立の「軍艦教授所」に船乗りになるために通う。さらに1ヶ月後には軍艦教授所の生徒として軍艦「丙辰丸」に乗って江戸へ航海に出る。
江戸に到着すると軍監教授所の生徒を辞退し、江戸での遊学を藩に申し出る。許可は降りたがしばらくすると、国許から帰国命令が下る。父小忠太が藩に晋作を帰すよう嘆願したのであった。
仕方なく晋作は、まわりみちして帰国することを請い、藩はそれを許した。せめて諸国を廻って賢人を歴訪し、剣術と文学の修練だけでもできればと考えた。晋作はこの旅を「試撃行」と名付ける。
水戸では、儒者の加藤有隣を訪問。加藤は晋作の訪問を歓迎し、夕飯をご馳走し夜中まで国政について論じた。次の日も加藤は晋作を引き止め
、時の経つのも忘れ天下国家を語り合った二人は意気投合するが、旅を急ぐ晋作は名残惜しく辞去した。晋作はこの訪問を「旅中随一の快事」と表している。日光、壬生、足利、上田と歩き、道中の剣術家に試合を繰り返す。松代では、佐久間象山と面会。象山は謹慎中の身であったが、松蔭の紹介状により面会することができた。しかし、開国派の象山と攘夷派の晋作とは意見が合わなかったといわれている。松代から信越、糸魚川を経由して福井で横井小楠に面会。その時の印象を「横井なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候」と記している。福井から大津、伏見を経由して大坂より富海船で帰郷する。
帰郷後、明倫館に復帰。廟司暫役を経て都講暫役に任命された。

万延元年1月 井上雅と結婚。
万延元年3月 明倫館退館。
万延元年4月 丙辰丸で江戸に航海する。
万延元年6月 江戸到着。軍監教授所を辞する。
万延元年8月 試撃行出発。
万延元年9月 加藤有隣、佐久間象山、横井小楠を訪問
万延元年10月 帰郷。
万延元年11月 明倫館復帰。

晋作と雅の結婚生活はわずか6年ほどで、一緒に暮らしたのは2年ほどです。国事に奔走する晋作は、萩に居る事が少なかった。当時の武家の嫁は家を守ることが努めであり、雅は萩を離れることができませんでした。それでも晋作は各地から雅に手紙を送り、反物や帯などの土産を送ったりしています。
船乗りを目指し挫折した晋作でしたが、後の大島口の戦いでは自ら丙寅丸に乗って幕府艦隊を撃退しています。したがって、どうも軍監教授所を辞したのは、船酔い以外の原因が考えられますね。
試撃行を名付けられた晋作の旅は、剣術修行の成果よりも各地の賢人と会って影響を受けたことが、晋作にとって大きな成長となったようです。

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