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【三百諸藩の幕末の動向】東北の諸藩/関東の諸藩/東海の諸藩/甲信越の諸藩/北陸の諸藩/近畿の諸藩/中国の諸藩/四国の諸藩/九州北部の諸藩/九州南部の諸藩 【その他リストなど】幕末明治の艦艇/御三卿・幕府直轄地拠点/幕末人物 墓所訪問 【晋作の愛した下関】豊北町・豊浦町/豊田町・菊地町/吉母・吉見・福江/向日・井田・田倉/吉田・清末/安岡・綾羅木・延行/長府/市街(下関~唐戸)/彦島 |
丙辰丸 山口県文書館蔵 象山神社 長野市松代町松代竹山町1502
横井小楠寄留宅跡 |
結婚~試撃行 | |||||||||||||||||||
安政7年、晋作は井上平右衛門の次女雅と結婚する。井上家は高杉家より家禄が高く、しかも雅自身は防長一の美人とうたわれた器量良しであった。それだけに雅には縁談話が多く、高杉家に嫁ぐことを決めた理由はクジであったといわれている。一方、晋作は師匠である吉田松陰を安政の大獄で失い失意の最中であったが、松陰の遺言でもある「妻をめとり、両親を安心させなさい」の教えを守ったのか、結婚に了承した。
晋作と雅の結婚生活はわずか6年ほどで、一緒に暮らしたのは2年ほどです。国事に奔走する晋作は、萩に居る事が少なかった。当時の武家の嫁は家を守ることが努めであり、雅は萩を離れることができませんでした。それでも晋作は各地から雅に手紙を送り、反物や帯などの土産を送ったりしています。 船乗りを目指し挫折した晋作でしたが、後の大島口の戦いでは自ら丙寅丸に乗って幕府艦隊を撃退しています。したがって、どうも軍監教授所を辞したのは、船酔い以外の原因が考えられますね。 試撃行を名付けられた晋作の旅は、剣術修行の成果よりも各地の賢人と会って影響を受けたことが、晋作にとって大きな成長となったようです。 次へ 高杉晋作略歴に戻る |
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