高杉晋作誕生地(旧高杉邸)
萩市南古萩町23 


青木周弼旧宅
萩市南古萩町


明倫館(現萩市立明倫小学校)
萩市江向602番地

少年期
高杉家は長州藩大組士200石の家柄で、毛利元就の時代より毛利家に仕えて代々能臣を輩出し、藩主の側役や財務官、地方行政官を任じられる名門であった。
天保10年、高杉晋作は当時の当主高杉小忠太の長男として萩城下菊屋横丁の高杉邸に生まれる。母は、長州藩士大西将曹の次女でみち。晋作の他、武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の3人の妹がいた。晋作は、体が弱くすぐに風邪を引いてしまう病弱な子供であった。
弘化3年、安西流馬医吉松淳蔵の家塾(寺子屋)で漢学を習う。同塾には久坂玄瑞も通っており、久坂とはここで知り合ったと思われる。
嘉永元年に、天然痘を患い生死の淵を歩く。当時、藩医として城下に住んでいた蘭学医青木周弼に往診を受け、一命を取り留める。しかし、顔にはひどいあばたが残ったといわれている(現存する写真や肖像には、あばたらしきものは確認できない)。
嘉永5年、藩校明倫館に入学するが、あまり勉強をせず成績は平凡であった。
また、藩の剣術師範であった柳生新蔭流内藤作兵衛の内藤道場に入門し剣術を習う。内藤道場には、桂小五郎も入門していたが、歳が離れている為、手合わせをしていたかどうかは不明である。
天然痘の跡や病弱な体つきから、近所の子供らにからかわれていたらしく、それが原因か剣術の稽古に没頭するようになり、いつしか剣客を志すようになった。


天保10年 萩城下菊屋横丁の高杉邸にて、高杉小忠太の長男として生まれる。
弘化3年 吉松塾(寺子屋)で、漢学を習う。
嘉永元年 天然痘を患う。
嘉永5年 藩校明倫館に入学。
嘉永5年頃? 柳生新蔭流内藤道場に入門

多くの作家が晋作の少年時代についてエピソードを書いていますが、どれも創作の域を出ません。高杉家は大組とはいえ大藩の長州藩では中級の家柄であり、少しいいとこの坊ちゃんというだけのことですね。学業の成績は普通。剣客を志して剣術の稽古に没頭するのは、現代の子供達が野球選手やサッカー選手に憧れて、勉強そっちのけで練習することと大差はないように思われます。晋作が非凡な才能の鱗片を見せるのは、吉田松陰との出会いを待たねばなりません。

                     
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